No.586◆私の「母の日」が消えて38年……

  

◇事務局・石川由紀が折々を綴っています。◇ 

 

 昨日は「母の日」。私にも赤いカーネーションが混じった花束が届きました。毎年のことですが嬉しかったです。そして3日後の「母の日食事会」には子ども連名のプレゼントを用意しているとか。早速額縁の中の私の義母と実母の写真に報告しました。

 

私の「母の日」は幼稚園の行事から始まったのだろうと思っています。多分園で授業の一環として折り紙の花などを作って持ち帰ったのではなかったかと。子供たちも同じようなきっかけで始まり、今も続けているのではと。この子たちはそれまでにテレビで教わっていたので、「肩たたき券」とか「お手伝い券」などを作ってプレゼントしてくれるようになり、年齢が上がるのに従いだんだんバリエーションが増え、誕生日プレゼントよりも期待するような中身になってきています。

 

私の義母と実母は同じ年に半年空けて亡くなりました。38年前です。どちらも癌で入院、病院で息を引き取りました。実母の方は病院の許可をいただいて付き添っていたので、死に目に会えましたが、義母の臨終には間に合わず心残りが今も… 

このような体験から、私は病院で病死を望んでいます。1人住まいなので「孤独死」「孤立死」と言われると、残された子供たちが“無念”を生涯背負うのではと案じるので。

 

戦後政策の家族像は「夫婦と未婚の子ども2人」を目標にスタートしたと聞いています。つまり、「三世代同居」は過去になり、家族員は4人が“標準世帯”として基礎になって、公共料金や税金制度等が決められてきたと学習した記憶があります。5月1日のメーデーのスローガンで「一人が働いて、4人が生活できる賃金を」と叫んでいるテレビ画面が記憶に残っています。戦後昭和はこのようにして“性別役割分業”が定着し“専業主婦”という働き方が半世紀近く続いたのでしょうね。

“兼業主婦”が70%を超えた今、日常生活に支障が出てきています。家事労働は家電の進化や外食・中食等の食品販売の多様化などでタイパ(タイムパフォーマンス)がよくなり、経験が少なくても暮らせるようになりました。しかし、育児・介護のような“ケアワーク”は一定期間付き添わなくてはなりません。“専業主婦”はそれらを担ってきていました。自分の家庭だけでなく、地域の家事労働も助けに入り、担っていました。私は転勤族と言う親族や地縁の人のいない環境で、医院や美容院に行くときの子どもを預ける先、自身が風邪で寝込んだ時、電話1本でママ友たちが対処してくださいました。私も同じようにして…

私が“兼業主婦”を担って来られたのは子どもが学齢期になってからで、「兼業」の中身もフリーランスに近かったので、親たちの緊急時にも対応できたからです。

 

高齢期に入った今、少し手伝ってくださるかつての“専業主婦”のような存在の知人がいてくれたら、安心して毎日が過ごせるのではと、勝手な妄想を時々しています。

家事労働は計画通りにはいかなくて、即時対応が基本です。時間労働との兼業は難しいと思います。