私は無宗教と言っているのになぜか・・・

 “お盆”。物心ついた時からお手伝いをしていました。しきたりにはとても煩い(五月蠅い?)祖母の下、15歳になるころには準備責任者でした。そのような環境の中、自身は「これは家の行事。私は仏教徒では無い」と割り切っていたのですが、身内の死に立ち会う度に、内なる宗教は“仏教” なのか! と思うようになりました。

 

 母の臨終の朝も、父の時も、数時間前から、目を閉じたまま「お迎えが来ている」と言っていました。そして祖父・祖母は「○○時にお別れ

ですからお支度を」と言っていました。信じられませんでしたが、本当でした。先祖が、

先立った家族が迎えに来る? 仏教の来迎説を半分信じた理由です。迎えが来る

からいっしょに行けばよいと思えれば、死の恐怖からは離れられるでしょうから・・・。

 しかし、これを信じれば “ あの世 ” があることになるのです。それは信じられない

私なのです。

 天国と極楽は同じなのか? “ あの世 ” は宗教によって異なる世界なの? 

家族で異なる宗教であれば、臨終時のお迎えも、死後は出会うことも無いの? 

などと考えるのは、法事の時と “お盆” の時期です。

 生前も死後も他者の手を借りることになる長寿時代。私は無宗教を通すのか、

家族の宗教に属するのか。はたまた新たに選び帰依するのか。

 多分 “お盆” が過ぎれば、また次の仏事までお預けになる課題です。

 

 小学校から大学に至るまで、なぜか歴史(日本史・世界史)を学習、選択して

こなかったのですが、観光旅行が趣味の私は、美術史講座にも通うようになり、

気が付いたらここ数年 “歴女” に染まりつつあります。

  国内旅行をすれば仏教に、海外旅行に行けば無宗教に、紛争ニュースに接す

れば宗教批判に、と、まだ長生きするつもりなので“迷える魂”を続けます。

  経済雑誌の終活特別号を買って読んでみました。しかし、この選択肢が定まら

ないと “終活” は進められないのですが・・・。“終活講座”では、この件については、

すでに決めてあることとして、取り上げられることはほとんどありません。

皆さんはお決まりなのでしょうね。

 

事務局のひとりごと 目次へ

 

 

 

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コメント: 5
  • #1

    Y. Nakayama (土曜日, 27 8月 2016 07:18)

    自分は無宗教と言われる方は多くいらっしゃいますね。で、亡くなるときは何も言わずに残される家族のなすがままに家族の宗教(大抵は仏教で、普通の家族は親の代からお世話になっている「お寺さん」の宗派)によって葬儀が行われます。
     私は今度、両親のお骨を引っ越しさせることにしました。私が死んだら墓守りがいなくなるのと、私自身がキリスト教で、死ねば教会の墓に入ることに決めているからです。ですから、両親の骨も移しておこうというわけです。これが済めば、私の終活は(持ち家や身の回りの品々の処分等々)一応完了ということになります。

  • #2

    K.O. (水曜日, 21 9月 2016 17:04)

    既存の宗教に違和感があるため選択肢が定まらず終活が進められないとのお悩み。終活を葬送や埋葬に限ってみれば自分でカスタマイズすればいいんじゃないでしょうか?大自然の事物に接した時や静謐な空間に立った時に感動したり、人が亡くなった時に悼む心など誰でもありますね。それは信仰でしょう。特定の宗教が確立される以前の古代から続く感情かもしれません。かなり以前の事、西アジア古代文明の発掘展を観に行った時、墓からの副葬品に10cm四方の袷の袱紗状のものがあってその縁の小さな縫い目を見た時、葬った人々の祈りに感動して泣きそうになりました。当時の人々の葬送の一部としての副葬品だったのでしょう。今の日本で葬送はこうしなければいけないという法律はありません。葬儀はやらなくてもいいし(直葬)、どのような形で行っても自由です。火葬後のお骨もずっと自宅に安置しておいてもいいのですよ。旧態依然とした墓埋法はあるものの1990年代から厚労省は環境等に配慮し節度を持って行う限り海や山への散骨も認めています。ですから葬儀も埋葬も自分がどうしたいか、されたいかの希望を具体的に考えて家族などに伝えておくことが大事です。友人のご主人の葬儀は宗教色なしで生のヴァイオリン演奏やビデオ、友人知人の言葉、全員が棺内の本人に献花するという形でしたし、また別の友人のお父上の場合は入院中のお母上以外の残された家族6人で自宅でのお通夜後、葬儀なしでそのまま火葬し、その後駅近くのファミレスで食事しながら語り合ったという事です。後日生前お父上が用意していたお墓にお骨を納めました。皆、自分たちの送り方で良かったといっていました。但し、一つご注意を。本人は死んでいるのですから家族等が自分の希望通りにしてくれない場合はあきらめが肝心となりますけど。

  • #3

    石川 (木曜日, 22 9月 2016 05:37)

    コメント、ありがとうございます。
    私自身は、自分の信仰する宗教は持っていないのですが、入れてもらうお墓は決めています。それは義父母・義兄夫婦が安んでいるところです。この4人は生前「先に行って待っていているから」と言ってくれているからです。そして、その墓は境内墓なので、“家”の宗教の儀式により納骨されることは決まっています。
     その前は火葬場です。これも法律により決まっています。納骨先が決まっているので、遺骨は骨壺に収納されます。
     その前は葬儀一連です。喪主は頼んであります。喪主にお願いする内容が決まりません。
    近親者で、無宗教で偲ぶ会をしてもらうのか、お付き合いのあった人・縁あって仕事や活動を共にした人にも即時に知らせるのか、等々。
     私の身近な人たちの葬儀は、働き盛りの子供もいて、地域社会では一廉の名がある親族たちなので、故人を知らない人たちも参列してくださるという、葬儀会社の標準的な葬送でした。
     高齢の義父母や義伯父・義伯母が葬送の儀に参加するにあたって、付き添って参列していましたので、私はその現実も見てきました。私が平均寿命まで生きると87歳でしょうか。その時の人間環境を考えると、・・・・。15年後の希望の葬送指示書は書けません。
     時代の流れが加速して早くなっている昨今、お願いごとを書いておくと、反って喪主の負担になるのではと思っているのです。
     宗教のことに戻りますと、私の場合宗教から離れられないのは“納骨”の時だけです。葬儀その他に関しては自由です。自由だから悩ましいのです。ということで、お迎えが近づいたら、喪主と打ち合わせすることにして、それまでは考えないことにしようと思っています。

  • #4

    K.O. (木曜日, 22 9月 2016 08:21)

    葬儀や納骨に関して喪主(ご家族)の負担を慮っていらっしゃるのですね。何と律儀で優しいのでしょうか。誰かの助けが必要な時はできるだけ相手の負担にならないようにとの思いには同感します。平均寿命が近づいたら打ち合わせをするとの事。しかし死は必ずしも老の後にくるものではありません。常に生と伴走していると思います。終末期の医療的措置、死後の事務手続きや遺品の整理、財産の処分方法等葬送以外にもご家族には多くの仕事が残っています。それぞれについて手数料(現金)とともに一応の希望を表明しておきたいと私は考えています。一度表明したらその内容をそのまま継続しなければならないという決まりはないでしょう。考えが変化したら書き直せばいいのです。納骨について宗教からはなれられないとおっしゃっておられますが、お骨が存在しなければその問題は消えますね。0葬というのをご存じですか?火葬後お骨を引き取りません。火葬場が産業廃棄物として処分します。骨が残らなければ納骨の問題はなしです。まだ0葬のケースは少数ですが今後増えていくと思います。私は25年前に葬送の自由を標榜し活動している組織に入会しました。明治に作られた墓埋法の内容(骨や遺体は墓に収めなければならない)に疑問と反発を感じていましたし基本的人権に反するとも思っていました。当時は海や山に節度ある方法で散骨するのがいいなあと思っていました。今でもそこの会員ですが時代や考え方は確実に変化してきています。私も0葬を希望するかもしれません。死やその後の事務作業等について自分の希望を残していますが、親族等の協力はほんとに申し訳ないですが必須です。こればかりは仕方ない。

  • #5

    K.O. (木曜日, 22 9月 2016 14:32)

    #4のコメントは一部不適切でした。境内墓に納骨されたいが自分は無宗教の為、納骨に必ず伴う宗教儀式はちょっと納得しずらいという事ですね。0葬は不適切でした。そちらの宗教についてちょっと調べてみたらいかがですか?お経の内容や儀式での所作の意味はどんなものなのでしょう?内容によって納得できるならその通りに行ってもらって同じお墓の中で皆様とご一緒にいられるのがいいと思います。菩提寺さんに率直にこの悩みについて相談してみるというのは不作法でしょうか。本来の仏教者なら在家の疑問に答えてくれそうですけど。お寺の態度も判断の材料にはなりますね。貴女様にとって大事な方々4人がお世話になっているお寺です。そんなに木で鼻をくくったようなお返事はなさらないんじゃないかと思いますけど。変なコメントで済みません。