「死後」が「死語」になる前に

ハス 画像

 高齢者比率が上がり続けているせいか、「終活」という言葉まで現れて、今や「死後」の話が堂々と笑顔で話されるようになりました。私が幼かった頃は「死」の付く言葉はタブーでした。そう教えられて育ちましたから、この話題が出ると今でも続けることに躊躇します。

 でもなぜ頻繁に話題に上がるようになったのでしょう。私が高齢者と呼ばれる年代だからでしょうか・・・

 

 私は「終活」がビジネスになったからだと思うのです。

かつて葬式は、親族や地域の人が手弁当で出したものでした。

その規模は本人が指定するものではなく、その家の格や経済状況、地域

の風習に沿って自然に決まったものでした。今は死に往く者に希望を聞

くという建前の下、葬儀に参列する人や葬儀の執行者、形式、費用まで

事前に用意しろ、というのですから、ちょっと酷な話ではないでしょうか。

 

 1人暮らしが増えたのだから、「死」が家族の出来事ではなくなって、

本人の個人的なことになってしまったからなのでしょうか。家族と同居

している人までが「終活」を考えているのはなぜなのでしょうか。

 このような話を友人としていたのですが、結論として、指示待ち人間

が増えたからではないかと。個人の意思が尊重されるようになったから

というのは建前で、他者に寄り添うとか、推し量るとかは面倒! やり

たくない! して欲しいことがあれば書き残しておいてね、費用もね、

ということなのでは・・・

 

 手順と費用を残してあれば、ビジネスとして成り立ちます。だから

念仏を唱えてくれるだけの「葬式坊主」や、親族を指図する「葬儀屋」

が主流になったのでしょう。

 とは言え、普段ご無沙汰ばかりという親族にとって聞いておきたい

ことはあるものです。危篤に近い状態の本人に「死後」の話など持ち

出せませんから、「死」が「死語・タブー」になる前に伝えたいこと

だけは伝えておくことにしましょう。

 

 

事務局のひとりごと 目次へ

 

 

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    RW (日曜日, 19 5月 2013 17:47)

    終活が盛んなのは、地縁と血縁があまりに薄くなったせいだと思います。以前なら所属する地域や家ごとの風習でスムーズに行われたでしょう。でも、その地域から都市に移って何十年もたっている。氏寺も無く、故郷の墓は遠く、核家族だけで葬儀の事を考えると、葬儀ビジネスに頼らざるを得ません。消費者としての視点でみれば、葬儀費用は不可解で、納得できません。見極めたいとも思います。
    友達の経験談です。親戚の付合いで断れず、親の希望とかけ離れた、葬儀となり、困惑したそうです。価値観の違いからいやな思いが残ったようです。
    以前ならば、身近に高齢者が居て、肉親の死を経験したと思いますが、今はあまりにも死が遠くなっています。だんだん体が弱って、いずれは旅立つことすら、考えずに生活に追われています。いきなり介護や葬儀に直面して真っ青になるのが現状だと思います。指示待ち人間が増えたというより、自分で指示したい人が増えたのだと思います。それなのに経験不足で知らないし解らない。死を予測することも避けてきました。このままではまずいと気が付いてしまったのです。家族に迷惑が掛かるからと言いつつ、本音は納得のいく 生き方+死に方を選択したいのだと思います。

  • #2

    事務局・石川由紀 (月曜日, 20 5月 2013 20:29)

    地域で育ち、地域で生活し、知人・友人も地域で生まれ育ち、人生すべてが地域で完結していた時代の風習で親を見送る人と、広域で生きてきた人との違いが鮮明になってきているのだと思います。
     今、終活を迫られているのは後者で、前者が指定するとかなり問題になるようです。私もその経験者です。私個人としては、終末を迎えた時点での、その地域の風習でよいのではと思っています。周囲の予想では、私は20年は生きているとか。その間に変わることが多くあると思います。だから流れに身を任すことにして、今は自分の希望は「よろしく」にしています。
     意志は大事にしてほしいですが、その意志も場面によって変わります。「無」になった私が早くから書き残したり、言い残したりしたら、執行役になった人の苦労はいかばかりか・・・
     指示しておいてよいのか、指示していなかったからよかったのか、どのように考えるかが判断者の裁量であり、試案どころでしょう。死は突然にやってきます。執行者にとっては指示がある方が、周囲との関係が楽であることは間違いありません。それが適切であれば尚楽に責務が果たせます。
     全国一律に、万人によいという図式はないと思っていますが、考える材料をいただければ嬉しゅうございます。