テレビの情報系番組で「日本人の美徳なのに、今『絆』はどこに
行ったんでしょうね」とか、Tシャツなどで『絆』という字をよく
見かけるようになったけれど、なんとなく違和感を覚えない?
と言い合っています。なぜ違和感を覚えるのでしょう?
『絆』を広辞苑で引いてみました。
①馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱。
②断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛。
通常は②の意味で使っています。
なぜ違和感を覚えるか考えてみました。そして『絆』という言葉で
縛られ、自由に生きられなかった人たちを沢山見てきたからだと
思い当たりました。
親・兄弟や血縁の生活を滅私奉公で支えさせられてきた長男。
意思に関係なく他家の家事雑事を押し付けられて孤軍奮闘した嫁。
そんな時代の接着剤は『絆』、それも恩愛や情実を伴わない、
強要された『絆』ではなかったでしようか。この『絆』という
基準を前面に立てていれば生きていくことができたけれど、
自由や個人の意思を主張すれば、既存の群れからは放逐されていた
といいます。血縁やしきたりを守ることが社会保障そのものだった
のですから。
職業も結婚も住むところも自由になった今、『絆』は元々各人が
付随して持っている財産ではなく、個々が紡いでいくものでは
ないでしょうか。育ててくれた親に恩を感じて、成人後、何くれと
無く子が気遣うのが『絆』で、育児という義務を放棄していた親に
それを感じないのは自然のこと。私はもう親を見送り、今一番気に
なるのが叔母と従姉。小さい頃身近にいて、忙しい母代わりに、
夭逝した姉に代わって姉妹の様に暮らした従姉だからです。
他の叔父叔母や従兄姉しは確実に異なる感情があります。
皆同じように感じて接しろと言われてもそれはできません。
高齢期の『絆』は、人生の集大成。自分で築き、紡いできたもの。
血縁の『絆』を問われても困惑するばかりです。私は標準値で生きる
とすると、あと20年もあります。自分で紡いだ『絆』を増やし、
共生していきたいと思っています。 (石川由紀)
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